『僕が見つけたいじめを克服する方法』岩田健太郎 著
要約
こどものいじめが減らないのはなぜか。それは大人の社会もまたいじめに満ち、いじめをなくす具体的で有効な方法が未だ実行されていないからだ。
しかし、いじめは絶対に看過してはならない。いじめに泣き寝入りしない方法を考える。
いじめ対策に必要なことは、まず第一に、「事実」である。
いじめ問題では、「願望」と「事実」が混同されることがよくある。例えば、「いじめる人は一部の困った人たちだけだ。」「いじめは道徳教育(いじめはだめなものだと繰り返し教えること)によって軽減される。」「ただの悪ふざけだと思った。」などの意見だ。
しかしこれらは、教育関係者らの願望にすぎない。
いじめる側には誰もがなりうるし、道徳教育をやっているにも関わらずいじめは減らないし、ただの悪ふざけの中で自殺者が出る。
目を向けるべきは被害者がどういった仕打ちを受けて、苦しんだかという事実なのだ。
次に対策として重要なのは、誰のことも当てにせず、被害者は証拠保全に努めることだ。そしてその証拠を糧に、いじめの事実をオープンな場で暴露することだ。ネットなどによるいじめなどは、物的証拠が取りやすい。
そして興味深いことに、著者は「他者への敬意」もいじめ対策への重要項目に挙げている。これは、上記の「誰のことも当てにしない」に矛盾しているかもしれないが、普段から味方づくりに努め「誰かが助けてくれる可能性」を最大化しておくことも大切なようだ。
いじめの原因追及にも、しばしば「願望」がみられる。しかしいじめの原因はまだ明確なデータとしてでておらず、原因を決定してその原因を責めることはできないのだ。それよりも、今おきているいじめへの早急な対処が第一である。
では、いじめを暴露することができた時、罰を受けるのは誰だろうか。
著者は、傍観者と教師に対する処罰には反対している。
もちろん、傍観は許容されてはならない。しかし、傍観者や教師はその処罰を恐れて自いじめの事実を隠蔽しかねない。大切なのはいじめの事実を見つけ、いじめを止めることだ。だから、教師や傍観者に対しては処罰を与えるのではなく、情報提供の義務を与えたほうが有効である。
いじめに対する処罰規定や解決手段は明文化されていない。ではそういった中で私たちが目指すべき世界はどのようなものだろう。
差別的な社会でよくみられる傾向に「差別の排除による差別の暗示」がある。
例えば、黒という色に対して黒人差別だ非難する態度は、黒人差別の存在を暗示している。本当に目指すべきゴールは「黒」と「差別」が結びつかない世の中なのだ。
もちろん、急にその世の中を目指すのは困難だ。「差別」を排除する行動は必要である。しかしそれは過渡期にすぎないことを理解する必要がある。
もう一つ、差別社会に見受けられるものとして「過度の一般化」がある。
いじめをする人の家庭環境が悪かったから、いじめの原因は親だ、というようなものだ。これは、個別の事情から出た一つの事実にすぎない。親といじめの関係を明確に示すデータは本当はないのだ。
だから、明確なデータがない限り、原因の議論に意味はない。あくまでも「事実」に対処していくことが最優先だ。
そして、最後に著者は「多様性」について説く。
多様であることは、選択肢が増え、考えることが増えることを意味する。選択肢が多いと、全体が得をする。そして考えることは、等質的な集団づくりとは違い、他者との違いを理解することにつながる。
これらのことを、人々が理解できれば、いじめは解消されていくだろう。